桜の塩狩峠
例年よりおおむね10日ほど早かった今年の北海道の桜。残念ながらピークを少し過ぎてしまったが、ゴールデンウィーク最終日の5月7日、和寒町にある塩狩峠に行ってきた。ここは、三浦綾子さんの小説「塩狩峠」の舞台となった場所だ。
塩狩峠にある石碑にはこうある。「明治42年2月28日夜、塩狩峠に於て、最後尾の客車、突如連結が分離、逆降暴走す。乗客全員、転覆を恐れ色を失い騒然となる。時に、乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任、長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。その懐中より、クリスチャンたる氏の常持せし遺書発見せらる。『苦楽生死均しく感謝。余は感謝してすべてを神に捧ぐ。』 右はその一節なり 三十才なりき」。旭川駅行きの列車が塩狩峠の頂上付近に差し掛かった際、最後尾の客車の連結器が外れ、峠を逆走し始める事故が発生。その列車に乗り合わせていた鉄道職員、長野政雄が暴走する客車を止めるため、車輪の下敷きになったという実際に起きた列車事故をモチーフにしたのが小説「塩狩峠」だ。僕が読んだのは高校生のときだった。他の乗客のために自分の命を投げ打つ、その行動に心を打たれた記憶がある。
峠には古い駅舎のJR塩狩駅のほか、三浦綾子さんが住んでいた旭川市にあった旧宅を移築・復元した塩狩峠記念館もあり、列車事故と小説が注目されがちだが、実は「塩狩峠一目千本櫻」(しおかりとうげひとめせんぼんざくら)と名付けられた桜がとってもきれいな場所でもある。その名前の由来はわからずじまいなのだが、おそらく「ぱっと目を開けたら(一目で)、千本の桜の木が目に入る」といった感じだろうか。旭川方向からここに向かう途中、国道脇にもたくさんの桜の木を見ることができるが、この駅付近一帯は非常に多くの桜の木が植えられていて、その名前にふさわしい光景が広がっている。しかも、そんな光景がただ山の中というのではなくて、鉄道という日常の風景に重なっているというのがまたいい。
以前にも一度来たことがあって、隠れた名所だなと思っていたのだが、訪れたこの日もゴールデンウィーク最終日にもかかわらず、人と車でごった返すというようなことはなく、家族や夫婦、仲間など、それぞれの時間を思い思いにのんびりと静かに過ごしていて、今でもやっぱり隠れた名所のままだ。
かつてはすぐ近くに「塩狩温泉」があった。通りかかった際に一度入浴したことがあった。でも、今はもうない。敷地一帯は一時、荒れ果てた感が満載になっていたが、今では町が整備してすっきりとした公園のようになっていて、玄関付近にあったとおぼしき池だけが当時をしのばせる。国道沿いにある、近くのコンビニ風のお店も閉まったままだ。
かつては、それなりの人が来ていたのだろう。温泉跡地に建てられた説明看板には、1921年(大正10年)に放牧中の牛が好んで泉源の溜まり水を飲み、発育、乳量に効果があったことから発見された鉱泉で、1923年(大正12年)に湯治場が置かれ、1957年(昭和32年)に全面改装されたあとは、春は観桜会、冬は塩狩国設スキー場の利用客や湯治客で賑わったものの、2007年(平成19年)から休業、2015年(平成27年)に解体とある。昭和は激動の時代といわれる。いろいろな物事が文字どおり激しく変化していて、混沌としていて、どこか猥雑な感じがするのだけれど、今からは想像もつかないような、とてつもないパワーがあちらこちらに存在していたのだなぁ、とあらためて感じさせられる。
昭和から平成、平成から令和になった今も、東日本大震災、新型コロナウイルスに象徴されるパンデミックの脅威、ロシアとウクライナの戦争など僕たちを取り巻く状況はめまぐるしく、大きな変化を余儀なくされている。そんな時の流れの中でも、桜はいつもどおりに咲き、いつもどおりに散っていく。命の営みはいつの世でも変わることはない。そんなことを考えていた。
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