25年前の入学式
写真には「’99 4 6」と印字されている。昔のフィルムカメラで裏蓋がデータバックになっているものは、日付を印字する機能がついていた。この写真はデータバック付きのCONTAX TVSで撮ったネガをスキャンしたもの。少しトリミングしたのでオリジナルの位置ではないが、こんな感じで印字されるのが昔の日付印字機能だ。デジタルデータであればプロパティを開けば撮影日時がすぐにわかっちゃうけれど、フィルム写真では自分でどこかに記録するか、このデータバックの日付写し込み機能を使うしかなかった。今考えれば、写真自体に印字されてしまうのは「どうなの?」と感じてしまうところもあるが、家族写真などに入っているのは、その瞬間を日付ごと写真に封じ込めたようで、それはそれでなかなかいいもんだなとあらためて感じている。
この写真は25年前、息子の小学校入学の日に、自宅から学校に向かう途中で写したものだ。この日は家族で学校に向かったが、次の日からは1人で登校することになる。学校までは2kmもないのだが、幼稚園には自宅の近くから幼稚園バスに乗って登園していたし、息子自身がのんびり屋というかちょっとふわふわした部分があったこともあり、1人で登校するにあたっては不安材料がたくさんあったので、入学式の前日に2人で学校までの道のりを歩いて、「道路を渡るときには右、左、右をちゃんと見るんだよ」「歩道からはみだして歩いたらダメだよ」などなど、マンツーマンの事前学習を済ませておいた。
入学式の翌日の朝、息子1人での小学校登校初日。僕はどうしても心配で、「行ってきまーす」と自宅の玄関を出た息子に気付かれないよう、少し遅れて自宅を出て尾行を開始した。予想に違わず、道をあっちにふらふら、こっちにふらふら、目に飛び込んでくるものに注意を奪われながらのんびりと歩道を歩いている。「ちょっと時間がかかりすぎだぞ」「おいおい、ちゃんと前を見ろよ」などとひとりごとを言いながら、物陰に隠れつつ尾行を続ける。息子は尾行されているなどと疑う余地もなく、ふらふらと遅いながらも自分のペースで学校に向かっている。結果、車にひかれることもなく無事、学校に着いたのだが、僕が職場に遅刻ギリギリになっってしまった。でも、息子が彼自身のペースで、1人で学校に何事もなく着いたことがしみじみとうれしかったのを、そして何よりも安堵したのを今でも鮮明に覚えている。
あれから25年。あっという間に過ぎてしまった。本当にいろいろなことがあった。今となっては子育てをするうえで、その場面場面での選択がすべて正しかったとは言い切れないのが正直な気持ちだけれど、そうするしかないと信じて進んできた。やってきたことが正解なのか、正解でないのかは、きっといつまでもわからない人生最大の超難問なんだろうと思う。
その後、息子は大学進学を機に家を出て、遠く離れた場所で1人暮らしを始めた。子どもが親元を離れて初めて、子育てをする時期は本当に短いなと感じた。ああすればよかった、こうすればよかったなんて、つべこべ考えてしまう自分がいてしまうのだけれど、自分の親も同じことをかつては感じていたのかもしれないし、世の中の親御さんたちの中には、同じような思いを感じている方もいるのではないだろうか。できれば時間を巻き戻したいと思う気持ちも正直ないわけではないが、それが叶わないのが歳月というものだ。このひととき、一瞬は二度と返ってくることはない。唯一無二の、濃密な、そして本当に短いわずかな時間を共有するのが子育てなんだなと、今さらながらに思う。
そして、あの日の僕のように、親というものは子どものことが心配で心配で仕方がないものだけれど、身代わりになることなんてことはもちろんできず、手助けしたいのをじっとこらえ、少し離れたところから見守ることしかできない存在なのだ。親というものは、なんとも切ないものだと思ってしまうけれど、そうやって子どもも、親も成長していくものなのかもしれない。
小さな体には不釣り合いな、明らかに大きめのランドセルを背に、ピョコピョコと通学路を歩く新1年生を見かける季節になった。なんともほほえましく、でもどこかきりりとした子どもたちの登校風景を眺めながら、そんなことを考えていた。
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