春の儚い命
スプリング・エフェメラル(spring ephemeral)。日本語で「春のはかない命」。背丈の低い、小さな花たちは、ほかの草木が伸びたり、葉っぱを広げてしまうと光を浴びることができなくなるので、いち早く目覚めて、花を咲かせ、受粉をし、種をつくる。ほかの植物が生い茂る夏から秋には枯れて、地下で養分を蓄えながら次の春に備える。そんな植物たちをスプリング・エフェメラルと呼ぶ。その生き方には「はかなさ」というよりも、生きることへのたくましさ、したたかさを感じるが、その姿は可憐で、やはりどこか「はかなげ」な雰囲気が漂っている。
最近、野生の花に心惹かれるようになった。もともと、花にはあまり興味がない、というか人間が口にできる実がならない植物全般に興味がないといった方がいいかもしれない。食べられる、食べられないが、僕にとっての興味が湧くか湧かないかの大きな境界線だ。釣りは好きだけれど、食べられない、もしくは食べない魚には興味がない。引き味を楽しむブラックバス、幻の魚ゆえにリリースしなければならないイトウ、そのほか食べてもおいしくない魚は釣ろうとは思わない。釣ったら、おいしくいただく。おいしくいただくために釣る。だから、釣りが楽しい。それと同じで、植物も食べられないものには興味がなかった。庭に植えているのは、野菜や果樹など食べられるものばかりだ。
そんな風だから、ジャガイモやえんどう豆、特にオクラの花なんかは「きれいだな」と眺めるけれど、よく花壇に植えてあるチューリップやヒマワリ、マリーゴ-ルドなどには、ほとんど心が動かされることはない。でも、林や森の中、野辺にひっそりと咲く花の姿には心惹かれる。自己主張することがなく、周囲に溶け込んでいるというか、一体化しているというか、なんだけれど、凜とした存在感があって、目を引く美しさ、可憐さがある。さりげない美しさと言ったらいいのだろうか。
きっかけはこの花、エゾエンゴサク。今まで見たことはあったのかもしれないが、存在をきちんと認識したのはつい最近だ。小さく、淡く青い花。ゴールデンウイークに桜を見に訪れた和寒町の塩狩峠では、こんな群落を見かけた。エゾエンゴサクと水色とカタクリのパープルピンクが清らか、やわらかな感じでなんとも春らしい。
前回のブログ「下を向いてばかりでは…」に載せたニリンソウも代表的なスプリング・エフェメラル。はかなげで、物静かなたたずまいが美しい。
旭川市の神居古潭付近では、オオバナノエンレイソウを見つけた。この花は発芽してから花を咲かせるまでに10年以上かかるという。発芽すると5~6年間は葉っぱを1枚、その後は3枚の葉を出すようになってさらに5~6年ほど過ごす。その間は年を追うごとに、葉っぱが徐々に大きくなっていく。そうして約10年後、やっと花を咲かせる。その後は、何年も繰り返し花を咲かせ続けるのだそうだ。花を咲かせるようになってもそのライフサイクルは変わらず、早春から初夏までの短い間に、一気に成長し、花を咲かせ、実をつけ、種をつくり、枯れる。そして、次の春まで地下で養分を蓄える。そんなエピソードを知ると、なおさら愛おしく感じてしまう。また、新たな楽しみを見つけてしまった。
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