2023-03-09

JR留萌本線の一部廃線に思う

 2023年3月31日をもって、JR留萌本線の留萌駅~石狩沼田駅間が廃線になるという。留萌、大和田、藤山、幌糠、峠下、恵比島、真布、計7駅が廃止になる。2016年12月に留萌駅~増毛駅間が廃線になってから6年余り。留萌市周辺から鉄道の風景が完全に消えてしまうことになる。

 留萌本線では今、にわかに最後の廃線フィーバーが起こっているようだ。留萌駅の立ち食いそば屋の名物、にしんそばが売り切れてしまうほどだ。使っているのはごく普通の蒸し麵。その上に身欠きにしんを甘じょっぱく煮つけた甘露煮がのっている。シンプルなんだけれど、食べるとなんだかとっても「留萌っぽい」感じがする不思議な一杯だ。

 廃線が決まる前の留萌駅はいつも閑散としていて、正午を過ぎた遅い時間でも食べることができたのだが、皮肉なものだ。ひとは、なくなってしまうものに何かしらの郷愁を感じてしまうのだろう。

 僕自身は、撮り鉄でも、乗り鉄でもない。なので、自分に関係のない路線であればそれほど感傷的になることはないのだが、小さいころから乗っていた鉄路なだけに、なくなることには寂しさを感じる。そんな、僕の記憶の一部を綴ってみたいと思う。

 僕の生まれは留萌市。高校はよその町で寮生活を送り、以降ずっと留萌を離れているので、中学生まで住んでいたということになる。数年前、高齢の父が雪道で転んで足を骨折してしまい、これ以上高齢の夫婦だけで暮らしていくのは無理ということで、結果的に留萌の家を引き払うことになったのだが、それまではゴールデンウイークや年末年始はもちろん、ちょくちょく孫の顔を見せがてら行っていたし、父の入院中は猛吹雪の日も毎週末、両親の様子を見に行っていた。なので、留萌には住んでいないが、ずっとつながりは続いていた。

 両親は自動車の運転免許がなく、僕の家には自動車がなかった。周囲や友達の家で、自動車のない家なんてほとんど聞いたことがなく、自家用車でどこにでも行ける家庭が本当にうらやましかった。どこかに旅行に行くときや、母親の実家に帰省するときなどは当然、鉄道とバスを乗り継いでということになる。僕の幼少期となると、今から50年ほど前ということになるのだが、黒い煙を吐きながら走る蒸気機関車を、母の実家があった道央のある町の駅の跨線橋で見た記憶がほんのうっすらと残っている。乗った記憶はないので、SLがまだかろうじて走っていた蒸気機関車末期のころに、たまたま見かけたのだと思う。

 そういえば、1999年に放送された朝のNHK連続テレビ小説「すずらん」のロケ地として恵比島駅が選ばれて、ロケセットがそのまま今の駅舎として利用されているが、そのことを機にしばらくの間「SLすずらん号」が留萌線を走っていた時期があって、家族で見物に出かけたことがった。このブログを書いていて「たしか、あのときに写真を撮ったはず…」と思い立ち、撮りためたポジのフィルムをあさってみた。撮影カメラはNikon F2 フォトミック、場所は藤山あたりだったように記憶している。モータードライブなんてものは持っていなかったので、走っている姿を撮れたのはこの2枚だけだ。

留萌本線を走るSLすずらん号

 ついでに写真もあさっていたら、こんな写真も出てきた。残念ながら撮った記憶は全くなく、上の写真と同じ年に撮ったのかも判然としないが、おそらく留萌駅で撮ったものだと思う。今となっては、どの写真も貴重な1枚となってしまった。

留萌駅で出発を待つ(たぶん)SLすずらん号

 今ではすっかりがらんとしてしまって、立ち食いそば屋だけがかろうじて残っている留萌駅だけれど、昔はそれなりの広さの売店キオスクがあって、深川市の名物ウロコダンゴなども売っており、結構な品揃えだった。列車を待つ人たちもそれなりで、廃線が決まったころのように待合室が空っぽという状態はあまり見かけなかった。

 僕と同様、高校から実家を離れた兄が帰省し、就学先へ戻って行くのを見送るのは、やはりこの留萌駅だった。始発に乗るため、冬にはまだ真っ暗なうちに家を出て、新たに雪が降り積もった道を両親と年の離れた兄、僕の4人で駅まで歩くのだ。あるとき、夜通し降り積もった雪道に、右へ左へとフラフラとつけたばかりとおぼしき足跡が続いていたことがあった。ついさっきまで飲んでいた酔っ払いが帰宅の途に就いたばかりのようで、「これがほんとの千鳥足ってやつだね」という兄の言葉に、「父さんも酔っぱらったら、こんな感じで帰って来てんだべね」と僕が返し、みんなで笑いながら駅に向かった。

 そんなときでも、母は早起きをして朝ごはんのおにぎりを握っていた。「元気に頑張んなさいよ」と母に見送られ改札を通ってホームに出た兄に、キオスクのそばにあった窓を開け、父が飲み物を渡して何ごとか言葉を交わしていた。父は知らぬ間に改札を離れて、キオスクで温かい缶コーヒーを買っていたようだった。兄は手を振りながら、跨線橋の階段の中に消えていった。

 僕がよその町の高校に進学し、長期休みの帰省から寮に戻るときも同じだった。見送ってくれるのは両親だけになっていたけれど、母は早くに起きておにぎりを握り、冬はまだ真っ暗な雪道を歩き、列車に乗り込む前に、父はキオスクで買ったあったかい缶コーヒーを買って手渡してくれた。

 深川に向かう鈍行列車の中で、母が握ったおにぎりをほお張りながら、少しぬるくなった缶コーヒーを握りしめると、涙が止まらなくなったことがあった。親元を離れてまた寮に戻ることの寂しさに、両親の姿がオーバーラップする。ひとり故郷を離れる列車に揺られているという状況も手伝って、さまざまなものがないまぜになったような涙だったように記憶している。おそらく高校1年生の時だったように思う。向かい合わせの4人掛けのシートの目の前は空席で、通路を挟んだ隣の席には乗客がいたけれど、声を殺しながらひとしきり涙していた。そんな切なく、しょっぱい思い出が残っている。

留萌駅のホーム

 高校を卒業してからは、道央自動車道も徐々に開通区間が伸び、留萌と札幌や旭川などを結ぶ都市間バスが運行されたこともあり、帰省時に鉄路を利用することもなくなった。その後、社会人になって自分の車に乗るようになってからも同様なので、30年ほどは留萌線に乗っていないということになる。「だったら、なくなっても問題ないでしょ」と言われそうだが、人生の一場面を刻んだものがなくなるということに、なんだかとても寂しい気分になってしまうのだ。

 年齢をある程度重ねてくると新たに得るものよりも、失っていくことのほうが多いような気がする。そんな寂しさを抱え、着ぶくれした服を1枚1枚脱ぐように、いろいろなものをそぎ落とされながら、歳月を重ねていくのが人生なのかもしれない。

 JR留萌線の幌糠駅の近くの民家を改造した事務所に、父が仕事で通っていた。朝一番の列車に乗り、留萌駅から幌糠駅まで。もう、30年近く前のことだ。廃線を前にあらためて訪ねてみると、看板はもう既になく、今も使われているのか使われていないのか判然としなかったが、その建物はまだひっそりとその場所にあった。雪がちらつき始めた夕暮れどき、毎日JRに乗り、この場所で結構な年齢まで働いていた父の姿がふと思い出された。

 鉄道は、たくさんの人たちの、たくさんの日常と、感情と、思い出をのせて走っている。それは、自家用車も、バスも変わらないのだけれど、車内の独特なにおいであったり、窓から見える風景だったり、ガタゴトと揺れる振動だったり、車内に流れるアナウンスだったり、一緒に乗り合わせた人たち話し声や空気感だったり、そんなものたちが感情を揺さぶる不思議な乗り物なのかもしれない。

 そして、駅舎もまた、たくさんの人たちの、たくさんの思い出の立役者だ。出発、旅立ち、見送り、帰宅、帰省、出迎え。喜びや悲しみ、晴れ晴れしいときや寂しさに打ちひしがれるとき、数えきれないほどのドラマを見守ってきたにちがいない。廃線後はそんな駅舎もほどなく取り壊されるのだろう。留萌本線に刻まれたたくさんの時間のかけらたちが、刻んだみんなの胸に帰って行ってくれればいいのにな、なんてことを考えている。

留萌駅の駅舎

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