JR留萌本線 石狩沼田駅~留萌駅を巡ってみた
JR留萌本線についての僕の思い出は、ブログ「JR留萌本線の一部廃線に思う」に書いたところだが、2023年3月31日の廃線を前に、石狩沼田駅~留萌駅の間を巡ってみようと思い立った。本当は列車に乗って巡るのがいいのだろうが、鉄道ファンなど観光客でにぎわっている列車に乗るのもちょっと違う気がして、数回に分けて車で駅から駅をはしごすることにした。
石狩沼田駅
まずは石狩沼田駅。この駅は深川までの路線が残るので、まだ存続されることになっている。ところで、この駅の所在地は沼田町。なのに、駅名がなぜ「石狩沼田」なのか、ずっと違和感というか疑問には思っていたのだが、特に調べることもなくスルーしてきた。それで今回調べてみると、もともと駅名は「沼田駅」だったところ、1924年(大正13年)に群馬県の上越南線(上越線)に沼田駅が開業したため「国名」の「石狩」をつけたようだ。
国というのは戊辰戦争後に定められた地方区分で、北海道には渡島国や日高国、十勝国など11の国があった。今では「渡島」であれば「渡島地方」とか「渡島総合振興局管内」といった呼び方になっている。総合振興局は現在14あるので、その頃は今よりももっと広い範囲を国としていたようだ。石狩国は現在の石狩、後志、上川、空知の各振興局管内にまたがる広大な領域だった。沼田町は現在、空知総合振興局管内に属しているので、頭に「石狩」とついていることに違和感があったのだが、このような背景があったとはまったく知らなかった。
この石狩沼田駅にはその昔、札沼線が伸びていて、新十津川駅と石狩沼田駅の間には鉄路があったということをつい最近、ラジオ番組で知った。札沼線の新十津川駅から札幌方面はところどころ、国道の近くを走っているので、車から線路や駅が見えたりするので鉄道のイメージがあるが、新十津川駅と石狩沼田駅の間の鉄路というイメージはまったくなかった。でも、考えてみれば、新十津川で線路が途切れていることは確かに違和感がある。
まずは1943年から1944年にかけて、石狩当別駅~石狩沼田駅間の線路が撤去。理由は太平洋戦争に鉄を供出するためだったという。戦後には再度、線路が敷設され運行が再開したものの、車社会の進展などの要素も手伝って、新十津川駅~石狩沼田駅間の収支が悪化、1972年に廃線を迎えた。もう50年以上も前のことで、どうりで知らなかったはずだ。
その後、2020年に新十津川駅と北海道医療大学駅の間が廃線になったのはまだ記憶に新しいところだ。新十津川駅は「日本一早い終電」が出発する駅として鉄道ファンの間で知られていて、新型コロナウイルスの流行に伴い、人が殺到するのを防ぐため、当初予定していたラストランの日程を5月17日から4月17日に急遽繰り上げた。政府が緊急事態宣言を出したのに合わせて、何の告知もなく行われた突然の出来事だった。当日、ニュースで知って非常に驚いたのを憶えている。沿線に住んでいる方たちは、きっと驚きと寂しさでいっぱいだっただろう。札沼線は歴史は、世の中の動きに翻弄され続けた歴史でもあるともいえる。
真布駅
留萌方面に向かって、石狩沼田駅の次は真布(まっぷ)駅。木造の小さな駅舎で、なんともいえない風情がある。こんな駅があったなんてことは、僕の記憶にはなく、今回初めて知った。駅舎の中には、桜の造花と千羽鶴が飾られていた。
恵比島駅
恵比島(えびしま)駅は、ブログ「JR留萌本線の一部廃線に思う」にも書いたとおり、1999年に放送された朝のNHK連続テレビ小説「すずらん」のロケ地となった駅で、劇中の駅名「明日萌(あしもい)駅」の看板のほか、駅舎自体も当時のロケセットのまま残され使用されてきた。駅舎は立入禁止のため入ることはできなかったが、ドラマの様子を再現した人形などが置かれていた。道路を挟んだ向かいには、ロケに使われたと思われる旅館と書かれた建物が、雪の中にひっそりと建っていた。
峠下駅
峠下(とうげした)駅は上下線がすれ違うことができるよう複線化されていていて、保線の方たちが常駐しており、深川駅、石狩沼田駅、留萌駅以外はすべて無人駅の留萌本線にあって、人の気配が感じられる貴重な駅だ。この駅の存在は当然知っていたけれど、列車から降り立ったことはないし、前を走る道路を何度も車で通ったことはあったものの、駅舎自体を意識したことも、見かけた覚えもないので、しっかりとしたたたずまいで、趣があっていい感じの駅舎に少し驚いた。複線になっているのも今回初めて知った。
近くには国道を挟んで小高い山があり、撮り鉄の方たちはそこに登って通過待ちをする上下線2つの車両を撮影しているという話を、写真撮影時に一緒に居合わせた東京から来たという男性から聞いた。「登っていく場所は足跡がついているから、すぐにわかりますよ」とのことだったので、実際に行ってみると、確かに足跡が雪の上に刻まれていた。撮り鉄、おそるべし!
列車が通過するたびに列になって線路を見回る保線員の姿。駅舎の光を透過して光るつらら。空を見上げると、瞬いているいくつもの星。そして、すれ違う列車から漏れる明かり。雪が降り積もる中、駅舎から漏れる明かりとホームですれ違う列車を撮ろうと何度か通ったが、思ったとおり、2023年3月31日でなくなってしまうのが惜しい風景がそこにはあった。
幌糠駅
幌糠(ほろぬか)駅は貨車を改造した駅舎。周辺には結構な数の民家もある。駅舎の中には駅ノートのほかに「あずま牛」のスタンプが押されたメモ帳が置かれていた。「あずま牛」は初耳だったので調べてみると、留萌の樽真布にある東牧場さんの高級ブランド牛のようだ。
藤山駅
藤山駅は、どことなく時代劇に登場しそうな木造の駅舎だ。外でカメラを構えていると、駅の中にいた「写真の邪魔になるでしょ」と男性がひとり外に出てきた。駅の中にはもうひとり男性がいて、その人は写真に写りこまないよう姿勢を低くしてくれていた。
駅に中には「きっぷ運賃表」を模した「警戒強化」の貼り紙があって、背を低くしてくれた男性が「これは留萌本線のほかに駅にはないんです。この駅にしかないんです」と教えてくれた。駅名が表示される部分には「備」「品」「の」「持」「ち」「出」「し」「は」「犯」「罪」「で」「す」と一文字ずつ書かれている。
「そうなんですか…」
「ただ、ここの駅にしかないっていうだけなんですけどね。あはは」
撮り鉄の見るところはひと味違うんだなぁと実感。ディープですね~。
そういえば昔、幌糠駅と藤山駅の間に桜庭駅というのがあったなと調べてみると、既に1990年に廃止され、今は跡形もないらしい。なくなった駅はほかにもあって、峠下駅と幌糠駅の間に東幌糠という駅があったようなのだが、こちらの駅の存在は僕の記憶にはないのだが、2006年まで営業していたようだ。知らないうちに、駅がいくつも廃止されていたことにあらためて驚かされた。
大和田駅
留萌駅のひとつ手前の大和田駅。高校で寮生活をしていた僕が列車で帰省していたころは、ここに着くと「もうすぐ留萌だ」と実感したものだ。線路から少し離れた場所にある駅舎は、貨車を再利用。近くにはその昔炭鉱があり、大和田駅は石炭の運搬を目的に開設されたそうだ。近くの踏切には往時をしのばせる名前が刻まれている。
留萌駅
終着、留萌駅。駅前の商店街は、今ではシャッター街になってしまい、すっかり寂しい感じになってしまったが、昔は全然違っていた。今は観光案内所になっているが銀行もあったし、ケーキ屋、パン屋、珍味などを扱う乾物屋、靴屋、本屋、いろんな店があり賑わっていた。スペースインベーダーやブロック崩しが世の中に登場しテーブル型のゲーム機が全盛期だったころ、駅前にはゲームセンターがあって、普通は100円球を投入して1ゲームだったテレビゲームが、確か30円くらいの破格な金額で最先端のゲームを楽しめた。今ではシャッターが下りっぱなしになっている、下の写真にある駅前市場の入り口右手で八百屋をやっていた元気なおじさんがゲームセンターの経営者だったように記憶している。当時、小学生のゲームセンターへの出入りは保護者同伴とされていて、ワルそうなお兄さんたちも結構な感じでたむろしていたが、そこでテレビゲームをするのが本当に楽しくて通っていた。
しかしながら、駅前のお店はあなどれない。まだまだ自慢の味があるのだ。駅前自由市場の長田鮮魚店さん、そして道路向かいにある「日本一新鮮で安い」がキャッチコピーのきしはた鮮魚店さんには、地元でとれた新鮮で安価な魚介類が並ぶ。スーパーなどでは見かけいないような地物が店頭に並んでいるので、その季節にしか味わえない日本海の海の幸が手に入る。留萌に行ったときに「魚が食べたいな」と思ったら必ず立ち寄っている。昔から変わらない「The 魚屋さん」だ。
同じく駅前にある田中青果さんの漬け物も絶品で、ここの「やん衆にしん漬け」は本当においしい。長期保存はきかないが、おいしいピークを店頭に並べるタイミングにもってきているのがよくわかる。北海道、いや風雪が厳しく、ニシンが獲れる留萌ならではの味といっても過言ではないだろう。野菜と麹、ニシンの調和が素晴らしく、ご飯のおかず、酒のつまみに食べだすと止まらなくなってしまう。
ちなみに「やん衆」とは、その昔北海道でニシンがたくさん獲れていたころ、ニシン漁で働いていた漁師、労働者の呼び名。今でも北海道の日本海側にはニシン番屋、ニシン御殿と呼ばれる建物が残っていて、ニシンの漁期にはたくさんの男たちが大きな建物の中で寝食をともにしながら魚を獲っていた。その建物の大きさを見ると、当時のニシン漁の凄まじさを垣間見ることができる。
実は僕の大好きな深川名物、高橋商事さんの「ウロコダンゴ」の名前も、このニシン漁に由来する。当時の留萌本線は石炭とニシンの運搬でにぎわっていて、留萌~深川間を行き交う貨車は、車体に張り付いたニシンの鱗をキラキラと輝かせながら走っていたといい、その鱗がダンゴの形に似ていたことから名付けられたそうだ。僕の記憶には、留萌から深川にニシンを背負い籠に入れて売りに行く行商のお母さんたちがたくさんいて、ニシンの鱗が列車のあちらこちらに張り付いていたということからこの名前になったとインプットされていたが、あらためて高橋商事さんのホームページを確認したら違っていた。いずれにしても、今の現状からは想像もつかない、留萌本線が華やかなりしころのエピソードだ。
あと、忘れてならないのが「豚(ぶた)ちゃん焼」。今でもお店「大判焼」さんは営業中だが、僕が幼かったころは、今のお店の道路を挟んだ向かい側にあった。今はもうラーメンなどは出していないようだが、子どものころは家族で出かけて、お店でラーメンを食べて、豚ちゃんも食べて、冬にはストーブの上にのせた鍋の中で湯せんした、あったかい瓶のコーヒー牛乳を飲むというのがお楽しみフルコースだった。甘く柔らかい生地の中に秘められたカレー味のひき肉と玉ねぎ。何度食べても、いつ食べてもおいしい。もちろん、豚ちゃん以外のたい焼きや大判焼きのあん、クリーム、どれを食べてもおいしい。今では結構有名になっているようで、休みの日などは人が並んでいることも珍しくない。
実は、途中で経営者が変わっていたということを、今回調べてみて初めて知った。僕が子どものころ食べていたのは前の経営者の方の豚ちゃんのようだ。結構な年齢のおじさんが、当時でも結構年季が入っていた「ぶたまん焼」と書かれた焼き台で豚ちゃんを焼いていて、おばさんがそのほかのことを切り盛りしていたと記憶している。値段はおそらく当時の倍以上になっている印象だが、今も変わらぬおいしさで、僕にとっては、まさに「留萌の味」だ。
2023年3月31日をもって留萌駅はなくなる。その影響がどれほどになるのかは、僕にはわからない。廃線になるくらいだから、地元にはそれほど経済的な影響はないのかもしれないけれど、僕にとっての留萌の味を守るお店にはなくなってほしくないなと切に願っている。
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